When it comes to certain kind of philosophy, they do tend to work with science. Philosophy of mind is one of the examples. You can not do philosophy of mind without neuroscience and psychology. Even some studies about Logic have psychologist and Linguists cooperate
@@田舎の百姓-f3c Depends on the types of argument I think. It becomes odd when you want to experiment on some types of propositions. And of course we have Logical Positivism whom consider anything which is not empirically accessible to us is meaningless. I think the biggest problem is the public do not follow rules of classical logic or any kinds of formal system they prefer when inferencing. That just makes them... yeah, they're just fighting I guess.
How could symbols of either natural language or metalanguage have bijection to proper parts of the world? Like Frege's puzzle suggested, two words may have different sense or meaning yet refer to the same thing, therefore it's not injection. It can't be bijection as well. Furthermore, the world may have things way more than the resourses of our language can ever express, the class of our linguistic resourses and the class of parts of the world might not have the same cardinality. Namely, there are things that exist, yet no words to refer to. They might not, therefore, even have surjection. How could bijection between languages and the world even exist?
言葉は各々だからでしょうに共感できます 後編が楽しみです。
今スキナーの徹底的行動主義を学んでいます。
その冒頭でも「感じていること」と「それを報告すること」の違いについて述べられていました。
スキナーの説明も「感じたことを報告すること」は言語共同体によって整置(アレンジ)された特定の言語的な随伴性の産物
だ、という見方をしていたので今回解説された内容との関連を感じました。
次回も楽しみにしています。
整置(アレンジ)って凄く良い訳ですね。今度から積極的に使おう。
確かスキナーの本でも,私的事象の説明で,この説は出ていた気がします.本動画の最後の部分「我々は規則を理解しそれに従い行為することができない.なぜなら~」も行動主義なりに考えれば,言語による規則(ルール支配行動)も環境側の強化随伴性(規則)に抗うことができないから,と解釈できるかもしれませんね.次の動画もたのしみですね!
ヴィトケンシュタインは「語り得ぬものは~と書いて哲学界を去った」とだけは知ってたから言語ゲームってその前に提唱したのかと思ってたわw
また戻ってきて提唱したのかw
「思考実験」をいくら繰り返しても、ソレは無限ループとなる…
例えば、言語について考察するなら、「実証実験」に基くデータによって論考する言語学、進化生物学、あるいは社会学を無視してはロジックを積み上げて行くことは難しいでしょう。
そういう視点で”哲学“を鑑みるならば、「思考実験」は必然的にパラドックスを生み出すと言えるかも知れませんね。😊
そういうことだと思います
When it comes to certain kind of philosophy, they do tend to work with science. Philosophy of mind is one of the examples. You can not do philosophy of mind without neuroscience and psychology. Even some studies about Logic have psychologist and Linguists cooperate
@@user-lp7bu8zo1c
もちろんです。
私は、研究者の問題と言うより、むしろ社会(学)的な問題と感じています。(形式主義的な思想が流布されている)😀
@@田舎の百姓-f3c Depends on the types of argument I think. It becomes odd when you want to experiment on some types of propositions. And of course we have Logical Positivism whom consider anything which is not empirically accessible to us is meaningless. I think the biggest problem is the public do not follow rules of classical logic or any kinds of formal system they prefer when inferencing. That just makes them... yeah, they're just fighting I guess.
@@user-lp7bu8zo1c
ロジックを積み上げるには、その規定(形式)を必要とします。
問題は、その形式を突き詰めるとパラドックスが生まれてくる、という事実です。
それは、どの形式を選択するか?という問題ではなく、そもそも形式が実在するのか?という問題だと考えます。😊
まあ、感覚を共有することは、そもそも不可能っていう。当たり前の結論になる。
言語自身、単独で意味することはない、または人によって差異が大きい。共通性は、言語自身の関係の増殖、関係の大きさ、類比によって、より単語の意味が共通するようになる。
単語(シニフィアン=言語の音声部分)の意味が収束する。
そうなると「何々語」が生成される。体系が生成される。日本語、英語、スペイン語とかになる。体系に。
これは、自転車にのる。ことと同じ。これが、小さな(部分)たちが
大きな関係の部分になるというはことだ。身体の微小部分と自転車の部分と、道路の部分が
うまく対応するということ。それらが「一気に」対応する。水泳で「泳げることになる」もおなじ。ほんとうは「類比」の対応ではない。ややこしいので、類比といっておいた方がいいかも。。だから、運動に対し、観念であれこれ言っても効果はない。問題は水(波)と泳ぎの「対応」だから。
。
動画楽しく勉強させてもらっています。
先日読んだ、神経科学者・渡辺正峰さんの「脳の意識 機械の意識」では、脳の半分を機械に置き換えることで、機械へ意識(クオリアを伴うもの)を移植できるかを、まさに「客観」ではなく「主観」で判断できるという話がありました。科学の発達で、いわゆる「心の哲学」が解明される日が来るかもしれません。その時に哲学が担う役割についても再考する必要があるかもしれませんね。
「胃がチクチク痛い」は針で刺すような痛みだと説明すれば理解しやすいが「胃がシクシク痛い」とか「胃がムカムカする」という痛みはイメージする物が漠然としているため、自分の痛みと他人の痛みが同種のものか、確かめるの難しそうだ。
自分もこれらの痛みをどうやって理解したのかよく覚えていない。多分お腹が痛いときに親から、シクシク痛いのか?とかムカムカするのか?とか質問されて、なんとなくこういう場合はそう言うのかと理解したのかもしれない。
確かに私の「シクシク痛い」が親の「シクシク痛い」と同種の痛さである保証はない。もしかしたら「ムカムカする」かもしれない。これは否定も肯定も出来ないことなので、ある意味どちらでもいいことかもしれない。
ゲーデル、エッシャー、バッハ
あるいは不思議の環(書籍)
を読んでほしい。
事象を言動で掴むことについて
言語の表現力は無ではないが限界がある。限界を構築する要因として各人の経験の違いが存在するからだ。
クオリアは、私的言語であるので、クオリアも私的言語も存在しない。これが、私の師匠の考えでした。けど、この目の前にある私のクオリアはいったい何?って思う気持ちが捨てきれませんでした。今もです。私は、最初のクオリアに私的言語が無いのは間違いないけど、同じクオリアが2回あった時に、クオリアが私的言語化されるんじゃないかと言語化しています。なので、最初の私的言語はないけど、2回目と認識された私的言語は存在するし、その時点でクオリアも存在すると言って良いと思ってます。つまり、私的言語は無いけど、後から私的言語によって、私的言語があったであろうという過去への推論です。無いけど有るようだという現実を理解するには、そのように理解するしかないと思います。なぜなら、この私的言語は、言語ゲームにより、公的言語と重なるはずだからです。
クオリアとか、まだ言ってる人がいるのにびっくり。意味なんてないわ
How could symbols of either natural language or metalanguage have bijection to proper parts of the world? Like Frege's puzzle suggested, two words may have different sense or meaning yet refer to the same thing, therefore it's not injection. It can't be bijection as well. Furthermore, the world may have things way more than the resourses of our language can ever express, the class of our linguistic resourses and the class of parts of the world might not have the same cardinality. Namely, there are things that exist, yet no words to refer to. They might not, therefore, even have surjection.
How could bijection between languages and the world even exist?
①我々は他者の傷口を見て「うわ、それは痛そう」とある程度は共感することができる
②他者の痛みを100%正しく理解することは不可能である
日常感覚としてこの①②は両方ともに正しいはずで、ウィトさんのように②を根拠に①を全否定するのはどうなんですかね
数学の証明問題じゃあるまいし、人間の思考・言語・行為一般を0と1だけで峻別できないっしょ?
語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。どういう事なんだろうと感じていましたが、なるほど他者の痛みを正確に知る事は困難ですね。小学校で先生が人の痛みが分かる人になって下さいと言うステレオタイプな話しは、実は難しいといったところですかね。(教育者を非難する意図はありません。)ウィトゲンシュタイン、クラスに居たら、厄介な人扱いされそうな方ですね。(笑)お話し面白かったです。
ちなみにヴィトゲンシュタインは小学校の教師をしていました
付け加えるなら彼は生徒に体罰してました
縄文時代には世界が存在しなかったのか?
ヒトは1万年も無世界に生存していたのか?
Cさんの箱は「クワガタの絵」なのですが、哲学チャンネルさんから視聴者への実体験の提供でしょうか
4回観て少し分かってきました
何か言い返したい気持ちがあるまま言い返せずにいます
クリプキさんに期待します
いつもありがとうございます
これは単なる私のバグですねw
@@哲学チャンネル これはこれで変に深読みしてみて面白かったです!
喩えは慎重に使ってください。
お願いします。
美学。